9月16日、15時50分。わたしの大事な大事なバカ息子、ぐーちゃんことフィールグレイト号が25歳で永眠しました。
この夏、少し痩せたものの、前の週まで元気に駈歩もしていたのですが、急な旅立ちでした。

最初に、ぐーちゃんの具合が良くないという連絡を受けたのは、9月16日の朝。北海道旅行中で、浦河の牧場にいたときでした。
倶楽部の社長とC先生それぞれから電話があり、前日から右前肢に跛行が見られたので獣医を呼んだが、診断では蹄も骨も腱もおかしいところはなさそうとのこと。ぐーちゃんは過去に蹄葉炎になりかけて蹄骨が少し沈下ぎみなので、話を聞いてまずそれを疑ったのですが、蹄はいくら叩いてみても痛がらないそうで、獣医も「おそらく肩だと思うので、寝違えたのではないか」という診断だったそうです。
この時点では、「少し休ませれば大丈夫だと思うんだけど、今朝になって肩が腫れてきたので、もう一度獣医を呼ぶね」という話でした。
その後、浦河から帯広に行ったのですが、電波が悪いので、携帯の電池をもたせるため電源を切っていました。電源を入れ直すと、C先生から「電話ください」というメールが入っている。
それで電話をしたのですが、C先生は出ません。まあ、レッスン指導中だと出られないだろうから、レッスン終了時間にかけなおそうと思いました。

いったん帯広競馬場について友人たちに挨拶し、とかちむらでごはんを食べているとき、C先生ではなく社長から電話が入りました。
いったんお店の外に出て話を始めたら、こう言われました。
「ごめんねママ。助けたかったんだけど、ダメだった…。」

今まで、ほかの馬が亡くなったときも、社長がそういう言葉を使うのを聞いてきた。
でもそれが、ぐーちゃんが亡くなったということだとは信じたくなかった。
急すぎる。さっき獣医呼んだから大丈夫だよって、その経過報告かと思ったのに。

肩が腫れてから数時間して、ぐーちゃんは右前肢を地面につけなくなったそうです。
それでも3本脚で立ってごはんを食べたり、ちょっと寝てみたり、馬房の中を少しだけ歩いてみたりしていたそうです。その分、負担がかかる左前肢には、アイシングをしてもらって。
それが、絶対に寝なくなって、3本脚が立ち腫れしてゆくのに絶対に寝なくなって。馬は自分で起き上がる自信がなければ寝ないのだというのは本当で。
それが、とうとう力尽きたように寝てしまい、しばらくして眠るように息を引き取ったそうです。

あの子を自分の息子にしたのが20歳のとき、2007年の8月。
うちの倶楽部に来たときは、完全に人間不信の目をしていたあの子が、最期に「ままがいて幸せだったな」と思いながら旅だってくれたらそれでいいと、ずっと思ってた。
どんな最期を迎えても、あたしがなでて抱きしめてあげるつもりだった。
なのに、こんなに遠くにいて何もできなかった。

ホテルに戻っても、泣いてばかりで何もできないわたしに代わって、相方が急遽東京に帰る手配をしてくれました。
ぐーちゃんの遺体は、家畜なので家畜業者さんに処分を頼むしかありません。
その時点では、業者さんに連絡が取れないということだったので、翌朝の飛行機で東京に帰ってぐーちゃんの顔だけでもなでて、きれいにしてあげようと思いました。
ママの手入れが大好きで、手入れしてると馬っ気出すような子だったから。

9月17日の朝早く、ホテルで朝食をとっていると、社長からメールが。
「ママ本当にごめんなさい。業者さんが今日しか都合がつかないということで、10時半に来てしまいます」
東京へ帰る飛行機は10時20分発。間に合うわけがない。
最期をみとるどころか、顔を見てお別れを言ってあげることもできない、ひどいママだ。

社長にメールを打ちながらボロボロ泣いているわたしに代わって、相方が社長に電話してなんとか時間を変えてもらえないかとお願いしてくれたようで、社長もできるだけ交渉してみると言ってくれたそうです。

12時に羽田に着き、倶楽部に向かう電車に乗っているとき、社長からメールが入りました。
「ごめんなさい。業者さんが明日は別のところに行かなければいけないそうで、どうしても今日になってしまいました。ママに言われたとおりに送ってあげました」と。
朝、ぐーちゃんの大好物の黒砂糖、口に入れてあげてくださいとお願いしておいたとおりにしてくれたそうです。

もう、急いでも何にもならない。
でも、ぐーちゃんの魂はそこにいるはずだから、お花を買って倶楽部に向かいました。
倶楽部が見えてくる橋、いつもはママを待ってそわそわしているぐーちゃんを想像しながら楽しく歩く道を、泣きながら歩くわたしに、「ゆうべ、強引にでも最終便に乗れば良かったね、ごめんね」と、相方はいっしょに泣いてくれました。
でもゆうべ、「今日の最終便乗れるかな」と言った相方に、せっかく来たんだからメインレースくらいは見てもらいたくて、「明日の朝で大丈夫だよ」と言ったのはわたし。相方のせいなんかじゃない。

空っぽになったぐーちゃんの馬房には、ぐーちゃんの飼い桶をひっくり返して作った祭壇にお線香。
その奥には、頼んでおいたぐーちゃんのたてがみ、しっぽ、蹄鉄。
顔をなでてあげられなかった代わりに、たてがみをなでてあげました。

でも、もう「まま遅かったじゃない」って怒りながら甘えてくれない。
大声で「ままどこ行ったの!!」って呼んでくれない。

ずっと夜まで、ぐーちゃんの馬房から離れられませんでした。
夜になって他の会員さんが帰ってから、社長からぐーちゃんを送ったときの話を聞きました。
馬房で倒れて亡くなったので、そのままの姿でわたしに会わせるために、ブルーシートをかけて板氷を乗せ、腐乱を防いだりしてくれたらしい。
業者さんが来るときに馬房から出したのですが、最近ちょっと痩せていたけど460kgはある馬体を馬房から出すには、重機で引っ張るしかありません。
それはわたしも覚悟していたことですが、社長は死後硬直の始まっていたぐーちゃんの遺体を傷つけないように、細心の注意を払って作業してくれました。
もし傷つきそうだったら、馬房の壁を切ることまで考えてくれていたそうですが、「不思議なんだよね。常歩で出てくるみたいに、すっと出てきたよ。いい子だったよ」と。
ぐーちゃんは、無口をかけたら馬房からすぐ出てくる子だったもの。

馬房から出す前に、わたしが頼んだ黒砂糖を口に入れてくれたそうなのですが、「それも不思議だったよ。口閉じてるから入りにくいかなと思ったけど、するっと入ったんだよ。馬房から出したあとにも口から落ちた気配はなかったし。出してからもう1個入れてあげたよ」と。
鼻息を荒くしてママにおねだりするほど、大好きな黒砂糖だもんね。

せめて最期の顔を見たいと、社長に頼んでおいた写真を見せてもらいました。
うっすら目が開いているような、うとうと眠っているような安らかな顔でした。
これも不思議なことに、馬房から出してもう一度目を閉じさせたら、きちんと閉じたそうです。

業者さんの車に積まれるときは晴れて暑いくらいだったそうですが、車が乗馬倶楽部を出て橋を渡っているころ、いきなりゲリラ豪雨になったそうです。
ぐーちゃんはすごい晴れ男で、ぐーちゃんに乗って繋ぎ場につないだら豪雨になった、なんてことは何度もあります。
最期の最期まで晴れ男でした。



9月20日、乗馬倶楽部の馬頭観音さまに、ぐーちゃんのたてがみを納めてきました。
たてがみをくるんだ紙に、最初で最後の手紙を書きました。あの子がわたしの息子になってくれて、5年もがんばってくれて、わたしはあの子に世界一幸せな馬乗りにしてもらったことを、少しでもあの子に伝えたくて。
正直、あの子が亡くなってから3日間泣き暮らしましたが、これで一区切り。
涙が出なくなるわけではないけど、少し前を向きます。


だいぶ前から決まっていたことですが、9月21日から9月いっぱい、入院・手術する予定です。
その前に旅立ったのは、あの子の気遣いだったのではないかと、みんなが言ってくれました。
本当にそうだったのかもしれません。
これで馬乗りをやめるようなことは、いろんなことを教えてくれたあの子に失礼だと思うので絶対にしませんが、ぐーちゃんの四十九日くらいまでは乗馬をお休みさせていただきます。

ぐーちゃんを悼んでくれたみなさま、わたしを心配してくれたみなさま、ありがとうございます。